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[但し書き]
#630/630 日本史ボード ★タイトル (FHJ55492) 94/ 6/14 8:38 ( 99) 古代史】安曇》出雲族と翡翠 アコ(99行) ★内容 話を進める前に、この「古代史】安曇》」シリーズを書くに当たって参考にし た文献について少々触れておきます。(私が所有しているもの、および地元図書 館の蔵書) 『広辞苑』『国史大辞典』『大日本地名辞書』『角川日本地名大辞典』は定番 ですし、『国史大系』(旧輯、新訂増補)や岩波の『日本古典文学大系』もテキ ストとしてはポピュラーですから、いいとして。 この「古代史】安曇》」シリーズでは、今までに書名を明記したものだけでも、 谷川健一著 『青銅の神の足跡』(集英社文庫、1989/単行本は1979) 若尾五雄著 『黄金と百足』(人文書院、1994) 志賀 剛著 『式内社の研究 第八巻 北陸道』(雄山閣出版、1985) 真弓常忠著 『古代の鉄と神々』(学生社、1985) 森 浩一編 『古代翡翠道の謎』(新人物往来社、1990) があり、明記しなかった参考文献には、 藤田富士夫著『古代の日本海文化』(中公新書、1990) 大林太良編 『日本の古代8 海人の伝統』(中央公論社、1987) 森 浩一編 『シンポジウム 東アジアと日本海文化』(小学館、1984) 井上鋭夫著 『新潟県の歴史』(山川出版社、1970) 野村純一編 『日本伝説大系3 南奥羽・越後』(みずうみ書房、1982) などがあります。 これらの内、『古代翡翠道の謎』は、昭和63年に糸魚川市と青海町の共催で 行われた「第二回翡翠と日本文化を考えるシンポジウム」の記録をまとめたもの です。第一回シンポジウム(昭和61年開催)の記録も『古代翡翠文化の謎』 (新人物往来社)としてまとめられており、私はてっきり、こちらも所有してい ると思っていたのですが、今回このシリーズを書くに当たり探したところ見当た らず、どうも書店で見掛けただけで購入はしていなかったようです。(^_^;) なんでも、『古代翡翠文化の謎』巻末には「縄文時代の硬玉製出土遺跡一覧」 も付いているそうで、ぜひとも1度読んでおきたいと思っています。 ところで、手元の本の中に、近江雅和著『越佐物語 ―古き神々の素性―』 (国書刊行会、1978)というのがありました。これには、沼河比売について もかなり詳しく考察されており、近江氏は、なんと、「渟名川=姫川?」と推定 していました。(p142) また、近江氏は、「終章」で沼河比売伝説の実年代を次 のように推定されていました。 ======================================================================== 長岡、糸魚川、魚津地区には、火焔土器という特徴的な共通文化をもった高志 族が先住していたとみてよいのではないだろうか。とくに姫川下流の玉造遺跡か らは、長者ヶ原のほかにも岩野、入山(縄文中期)、細池(縄文晩期)、田伏、 大角地(古墳期)とヒスイの原石をともなう玉造遺跡が発見されており、これら の遺跡は弥生期のものが一つもないことが判っている。 そこで、弥生期(紀元前三〇〇〜三〇〇年頃)に何か大きな変化があったとみ なければ、この説明がつかないことになる。 大きな変化というのは、ヌナカワ姫伝説に象徴される出雲族の高志侵略だった とみてよい。前項で年代をしぼってみたように、スサノオの「高志のヤマタノオ ロチ退治」、出雲風土記の「越の八口(やくち)」、越後国風土記逸文の「ヤツ カハギ」、オオクニヌシに退治された「越の土雲」、国引神話の「高志のツツノ ミサキ」など、しきりと越に関係して出てくるこれら出雲の神々は、いずれも弥 生期に入るものばかりである。時代をもっとしぼれば、一五〇〜一六〇年頃、ス サノオは越前、加賀、能登のあたりまで進出してきた。ついでヌナカワ地方のヒ スイをねらって侵入してきたものとみたい。 さきに第三章で、ヤチホコという呼び名に武神の臭いがし、オオクニヌシの別 名とすることに疑問が残ることをのべておいた。出雲族の越の国進出の時期から いえば、ヤチホコとはスサノオだったと思われてならない。 さて、先住の高志族は出雲族の侵略に遭っていたるところで抵抗したが、武力 の差はかなりひらいており、河川沿いにみちのくへと後退して行った。高志族の 先住地と、後退して行った経路には古四王神社が残っており、高志族の存在と末 路を物語っている。後世、古四王社は大彦にすり変えられているが、とんでもな い。高志族後退の時期は大体二二〇〜二三〇年頃のことだったと思われる。 (pp249-250) ======================================================================== ※引用文中に《前項で年代をしぼってみたように、‥‥》とあるが、近江氏は、 神武天皇の時代を3世紀前半、応神天皇即位を361年としている。(pp233-247) また、《さきに第三章で、》とあるが、「第三章 上越地方」(pp135-178) を 指す。 引用文の冒頭に《長岡、糸魚川、魚津地区には、ヒスイの原石をともなう弥生 期の玉造遺跡がない》といったことが書かれてありますが、近江氏によれば、こ の時期に出雲族が高志に攻め込んだために、遺跡がないのだということのようで すね。 しかし、『古代翡翠道の謎』巻末の「弥生・古墳時代の硬玉出土地一覧」によ れば、 大塚遺跡(糸魚川市大字一の宮) 弥生前期 後生山遺跡(糸魚川市大字一の宮字後生山)弥生後期 斐太遺跡(新井市大字雪森) 弥生後期末〜古墳初頭 といった弥生期の遺跡からも、翡翠の原石や未製品が出土しているようです。つ まり、糸魚川周辺では、弥生時代を通じて継続的に翡翠の加工が行われていたこ とが想像されるわけです。 また、近江説では、出雲族が沼河比売族を追い払ったということになりますが、 もし、そうなら、その後、誰が翡翠を加工したのでしょう。出雲族にも翡翠の加 工技術者がいたのでしょうか? あいにく、今のところ、出雲地方からは翡翠の 原石や未製品は見つかっていないようです。 ということは、もし、出雲族が侵略してきたとしても、それは完成品の掠奪が 主で、翡翠の原石や、ましてや翡翠の鉱脈には関心がなかったということになり ます。おっと、原石だけでなく、工人も一緒に掠奪するという手はあるか‥‥。 FHJ55492 アコ |
2002.10.07 / 2002.10.09