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閼伽出甕 論考集「翡翠と沼河比売」(15)

 

[但し書き]

#612/612 日本史ボード
★タイトル (FHJ55492)  94/ 6/ 9  11:14  ( 83)
古代史】安曇》沼河比売と黒姫・続々      アコ(83行)
★内容
 『記紀』を持ち出すと話がややっこしくなるので、あまり好きではないのです
が、履中紀元年七月4日条によると、履中天皇は葦田宿禰の娘である黒媛を皇妃
にしたとあります(『古事記』では「黒比売」)。二人は、

 履中天皇
  ‖_______磐坂市辺押羽皇子
  ‖     |
 黒媛     |_御馬皇子
(葦田宿禰の娘)|
        |_青海皇女(=飯豊皇女)

という子を設けますが、磐坂市辺押羽皇子と御馬皇子は、雄略天皇即位前紀によ
れば、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されたために、天皇には成れませんでし
た(ちなみに、『播磨国風土記』美袋郡条には、「市辺天皇」とあり、即位した
可能性も残る)。

 ここで、まず気になるのは「青海皇女」という名です。地図を見ると、新潟県
西頚城郡の黒姫山の麓に青海(おうみ)があります。この皇女がホントに黒媛の
娘であれば、青海を調べればこの黒媛の正体も分かるかもしれません。

 『延喜式』「神名帳」によれば、同地には青海神社があります。また、志賀剛
氏の前掲書($0573 「古代史】安曇》沼河比売と海神」参照)によれば、祭神は
椎根津彦だそうです。さらに、『新撰姓氏録』(「正倉院」$0939 参照)を見る
と、《青海首 椎根津彦命之後也。》とありました。この「椎根津彦」は、別名
を神知津彦とか珍彦(うずひこ)といい、もちろん海神です。

 ということで、黒媛は珍彦の末裔である可能性が高いように思えます。と同時
に、黒姫山の黒姫(つまり、沼河比売)も、珍彦の末裔なのかもしれませんね。
ひとまず、ここでは《沼河比売は珍彦の末裔である》としておきましょう。(^_^)

 いままでの推理を総合すると、姫川流域を考えた場合、その河口近くには珍彦
の末裔がおり、中流に安曇族、もっとも内陸には宗像族がいたことになります。
加えて、南安曇郡には穂高神社だけでなく、「住吉五社大明神」に挙げられてい
る住吉神社もあり、住吉族もいたことが分かります。おおっ、海人のオンパレー
ドだ!

 もし、ホントにこれらの海人が、姫川流域にやってきたのなら、その時期はい
つ頃なのでしょうか。沼河比売が糸魚川付近の翡翠に深くかかわっていたとする
と、縄文時代中期(紀元前3000年頃)までは遡れることになります。

 また、パームさんの $0598「古代史】穂高神社」や $0611「古代史】ヒスイと
安曇族」によれば、地元では安曇族がやってきた時期を6世紀頃としているそう
です。それに、すでに $0593「古代史】安曇》建御名方神の諏方入り」で紹介し
たように、真弓常忠氏も建御名方神の諏方(すわ)入りを6世紀以降としていま
す。

 沼河比売族(とりあえず、こう呼んでおきます)がやってきた時期と他の海人
がやってきた時期が、やけに離れていますねえ。そこで「?」なのは、古墳文化
をもたらしたのが安曇族ならば、弥生文化の担い手は誰? それに、諏訪神社の
御柱祭と金沢市のチカモリ遺跡(縄文後期から晩期)などの巨木遺跡や出雲大社
の創建伝説になんらかの関係があったと推測すると、建御名方神の諏方入りの時
期も1000年程度は遡らせることが出来そうな気もするのですが‥‥。

 さらに、パームさんに紹介していただいた説(脚注1)によれば、安曇族は東山道経由で
やってきたとか($0611 参照)。もし、そうだったとしたら、このシリーズを書き
はじめる発端となった、穂高神社の「御船祭り」(脚注2)(パームさんの $0537「古代史】
RES】海人 安曇族について」参照)はどう解釈したらよいのでしょうか。

 内陸地に入植した安曇族の海へのあこがれが産み出した祭りだったのでしょう
か。それとも、鉱石を求めながら、河口から遡ってきた歴史の反映なのでしょう
か。私は、$0536 「古代史】海人は、なぜ内陸へ向かったのか?」に従い、後者
ではなかったかと考えています。

 最後に、前回($0610 「古代史】安曇》沼河比売と黒姫・続」)の補足を少々。

 今年の4月22日、群馬県前橋市教育委員会は、同市西大室町の中二子(なか
ふたご)古墳(6世紀の中頃から後半にかけて造られたとされる前方後円墳)の
西側から出土した円筒埴輪を復元した結果、その側面に入れ墨文様の入った顔が
刻まれていることが分かったと発表しました。これにより、東国では、6世紀後
半になっても、『魏志倭人伝』にある黥面(げいめん1)の風習が残っていたこと
が判明したわけです。

 さらに、この古墳が上毛野氏に関るものだとすると、『新撰姓氏録』によれば、
この上毛野氏は住吉族と思われる住吉朝臣と同祖とされています($0584 「古代
史】安曇》穂高見命と建御名方神」参照)。ということは、当時住吉族もなんら
かの入れ墨をしていた可能性があるわけです。また、履中紀に「阿曇目」の起源
譚があることからも、当時安曇族も顔に入れ墨をしていたと思われます。

 したがって、履中天皇の時代(5世紀頃?)の海人の娘と思われる黒媛の「黒」
が黥面を表わしているとする、私の推理も、あながちヨタとは言い切れないかも
ね。(^_^)

                        FHJ55492  アコ


脚注1:「パームさんに紹介していただいた説」とは、パームさんが1994年6月8日    に書き込まれた#611「古代史】ヒスイと安曇族       パーム」の    中で紹介された以下の説を指す。    →(本文)

実家に帰ったおり、「南安曇郡史」が有りましたので読んでみましたところ、安曇 野に定着した安曇族は、北九州から来たのではなく、河内の安曇族が大和政権の命 により、開拓団として入植したのではないかとの説が有りました。 (入植経路は、東山道経由) この説を読んだとき、いくつかの疑問の回答がでたような気がしました。 説の詳細は省きますが、「越に対抗している前線の補給拠点のような役目をさせよ うとしたのだろう」ということです。

脚注2:「御船祭り」については、「御船祭り」を参照    のこと。    →(本文)

【校註】 1:MSG原文は「い」。誤記なので「ん」に改めた。


[目次]

2002.10.07 / 2002.10.10