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閼伽出甕 論考集「翡翠と沼河比売」(6)

 

[但し書き]

#561/561 日本史ボード
★タイトル (FHJ55492)  94/ 5/29  13:10  ( 39)
古代史】RE:RES】科野の国          アコ(39行)
★内容
 パームさん、また新しいキーワードのご紹介、ありがとうございます。さっそ
く「塩の道」についても調べてみようと思います。

 ところで、「渟名川」と「姫川」の関係ですが、「姫川」には「夜しめ川」と
いう別名があるようなのですが、渟名(ぬな)→姫(ひめ)という転訛はちょっ
と考え難いです。いろいろ調べてみると、西頚城郡の能生(のう)町を流れてい
る能生川ではないかというのが有力な説だそうです。渟名(ぬな)→能生(のう)
という転訛はありそう。(脚注1)

 それから、パームさんご紹介のように、八岐大蛇(やまたのおろち)も高志か
ら出雲へやってきたとされていますね。出雲の大国主命も沼河比売を訪ねて高志
へやってきたとされています。

 しかし、律令時代頃では、出雲と越(高志)の間には、若狭・丹波(丹後を含
む)・但馬があったわけです。それらを飛び越えて、出雲←→高志間で交流があっ
たというのは、ちょっと奇妙ですねえ。大昔、出雲と高志が隣接していた、つま
り若狭・丹波・但馬がまだ独立していなかった時代からの伝承なのかもしれませ
んね。

 あっ、そうそう。八岐大蛇は高志から出雲へ掠奪に向かうわけですが、今まで
に紹介した史料では、大国主命は割りと友好的に沼河比売を訪ねて高志へやって
きたようになっています。

 ところが、西頚城郡に伝わる民話では、必ずしもそうではありません。例えば、
出雲族に攻め込まれ、沼河比売が逃げ回るといった話や、大国主命が沼河比売を
娶ろうとしたとき、土地の神がそれを許さなかったので、競走で決着をつけたと
か(もちろん、勝ったのは大国主命)。

 ということで、出雲と高志については、あまり友好的な関係ではなかったのか
もしれません。なお、それらの民話については、後ほど紹介する予定です。

 それから、私の手元には、信州の考古学資料が全くないので知りませんでした
が、弥生時代の遺跡が見当たらないのですか。興味深い情報をありがとうござい
ました。この点については、言問さんなどが書かれているように、日本の考古学
界には稲作遺跡=弥生遺跡という傾向がありますから、弥生時代に信州には人が
住んでいなかったのではなく、単に稲作を行なっていなかったということなんで
しょうね。(脚注2)

                        FHJ55492  アコ

脚注1:渟名川と姫川の関係や渟名川の比定地については、    #585「古代史】RE:姫川について           アコ(72行)」    で再検討している。    →(本文)

脚注2:この点については、パームさんが1994年6月5日に書き込まれた    #596「古代史】信濃の弥生時代               パーム」    の中でフォローされている。    それによると、当地の弥生時代の特徴として、以下を挙げられるとのこと。    そして、「信州においては弥生時代はかなり短く、縄文形式をかなり引い    た弥生時代だった」のであって、決して弥生時代が無かったということで    はないとの説明をいただいた。

*弥生前期の遺跡が存在しない。 *弥生式土器に縄目の模様を付け装飾する。 *祭祇は縄文形式で行なわれる。 *牧畜は行なわれず、狩猟中心。 *米作よりクリ・ドングリ等を主食とする採集中心(米作は一部) *縄文時代は、諏訪・佐久が中心だが、弥生時代は、長野・飯田地区中心 *弥生文化が全県的に広がるのは、弥生後期。 *古墳時代は、世間一般と同時期に訪れている。

   ちなみに、「國學院大學学術フロンティア/大場磐雄資料目録/弥生時代編」    (URL=http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/ooba/yayoi0.html)および    付表を見ると、長野県内にも広範囲に弥生遺跡があることがよくわかる。    →(本文)


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2002.10.07 / 2002.10.11