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閼伽出甕 論考集「翡翠と沼河比売」(5)

 

[但し書き]

#560/560 日本史ボード
★タイトル (FHJ55492)  94/ 5/29  13: 9  ( 81)
古代史】安曇》宗像族と安曇族         アコ(81行)
★内容
 先ずは、前回($0550 古代史】安曇》沼河比売と建御名方神)の続きから。

 沼河比売に関する系譜には『先代旧事本紀』以外に、もう1つ伝わっています。
それは『出雲国風土記』嶋根郡美保郷条で、そこにはこうあります。(原漢文。
下し文は、岩波・日本古典文学大系『風土記』によった)

 美保の郷 郡家の正東廿七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命、
 高志の国に坐す神、意支都久辰為命(おきつくしゐのみこと)のみ子、
 俾都久辰為命(へつくしゐのみこと)のみ子、奴奈宜波比売命(ぬながは
 ひめのみこと)にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命(みほすすみの
 みこと)、是の神坐す。故、美保といふ。

 この「天の下造らしし大神の命(所造天下大神命)」は大国主神の別名とされ
ていますので、

 意支都久辰為命_俾都久辰為命_奴奈宜波比売命(高志)
                 ‖_________御穂須須美命(出雲)
                 ‖
                所造天下大神命(出雲)

という関係になります。

 ちなみに、『延喜式』の「神名帳」を見ると、出雲国嶋根郡十四座に美保神社
がありますから、御穂須須美命はここの祭神でしょう。

※『古事記』上巻:沼河比売(ぬなかはひめ)
 『先代旧事本紀』巻第四、地祗本紀:沼河姫
 『出雲国風土記』嶋根郡美保郷条:奴奈宜波比売命(ぬながはひめのみこと)
 は、同じ人物(神物)であるとされている。念のため。(^_^)

 前回紹介したように、『先代旧事本紀』には、諏訪湖の祭神である建御名方神
を大国主神と沼河比売の子とする伝承がありますが、祭られている地域が違いま
すので、御穂須須美命とは別人(別神)と思われます。ちなみに、『出雲国風土
記』の方が『先代旧事本紀』よりも先に成立した本です。

 ついでなので書いておきますが、「神名帳」によると信濃国諏方郡に南方刀美
(みなかたとみ)神社二座とあります。二座というのは、たぶん建御名方神とそ
の妃だと思いますが、詳しいことは知りません。(^_^;) また、信濃国水内郡九
座の最後に健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことかみわけ)神社とい
うのがあるのですが、建御名方神の勢力圏には諏方郡だけでなく、水内郡も含ま
れていたのでしょうかね。

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すわ‐じんじゃ【諏訪神社】スハ‥
 長野県諏訪にある元官幣大社。諏訪市中洲の上社(カミシヤ)と下諏訪町の下社(シモシヤ)
 がある。祭神は建御名方富命とその妃八坂刀売命。古来、武事の守護神として
 武将の崇敬が厚かった。七年目ごとの御柱(オンバシラ)の祭が盛大。信濃国一の宮。
 今は諏訪大社と称。長崎市上西山町にも同名の元国幣中社があり、おくんち祭
 が著名。                   〔EB『広辞苑』第四版〕
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 ところで、諏訪の建御名方神が海人・宗像族だったとすると、お隣りには、こ
れも海人の安曇族がおり、穂高神社の穂高見命を祭っていたそうですが、両者の
仲は良かったのでしょうか。調べてみると、こんな事例が見つかりました。

 『万葉集』巻十六「筑前国志賀白水郎歌十首」(3860〜3869)の3869番の左
に注があるのですが、それにはこんなことが書かれています。(アコ、現代語訳
す)

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 神亀年中(724〜729)のこと。大宰府は筑前国宗像郡の百姓宗形部津麿を対馬へ
食料を送る船の船頭に任命した。ところが、津麿は、滓屋郡志賀村の白水郎荒雄
に、「自分にはちょっとした用事があるのだが話を聞いてくれないか」と頼んだ。
荒雄は、「私はあなたとは郡が異なるが、永い間、同じ船に乗っている。志は、
兄弟よりも篤く、殉死することも厭わないだろう」と答えた。津麿は、「私は大
宰府から対馬へ食料を送る船の船頭に任命されたが、年を取りすぎて海路には堪
えられない。出来ることなら、役目を替って貰えないだろうか」と言った。荒雄
は、これを許諾し、肥前国松浦県美禰良久の崎から出帆し、対馬を目指して海を
渡った。しかし、たちまち空は暗くなり暴風雨となった。そして、順風なく、海
中に没してしまった。そのため、荒雄の妻子らは、深い悲しみに堪えきれずに、
この歌を作ったのだという。また、ある人は、筑前国守山上憶良臣が、荒雄の妻
子の傷みを悲しんで、妻子の気持ちを代弁して作った歌だと言う。
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 宗形部津麿は、その名が示すように宗像族です。これに対して荒雄は、志賀村
の白水郎とありますから、安曇族と考えられます(志賀村は安曇族の本拠地)。
この二人は、住んでいる郡も異なるのに、一緒の船に乗っていたとありますから、
宗像族と安曇族は非常に友好的な関係にあったことが想像されます。で、これと
同じ状況が信濃国にもあり、両者は友好的に暮らしていたのではないでしょうか。

                        FHJ55492  アコ


[目次]

2002.10.07 / 2002.10.11